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松平 康郷(まつだいら やすさと、1693年(元禄6年) - 1789年7月5日(寛政元年6月13日))は江戸時代の旗本。 伊勢長島藩第2代藩主松平忠充の五男。母は側室。官位は従五位下、伊勢守、安房守、豊前守、因幡守、中務少輔。初名は尚慶。子に松平康眞、水野勝羨、松平郷至、最上郷倍(最上義郷養子)、戸田氏永ら。 元禄15年(1702年)8月21日、父の改易に伴い長島藩は廃藩、代わって兄の康顕が信濃国佐久郡5,000石(下県知行所)を、康郷も同地に1,000石を賜り、各々寄合に列する。 元禄16年(1703年)3月28日、将軍徳川綱吉に拝謁する。正徳2年(1712年)、康顕の養子となり、自身の1,000石は収公されたが、正徳3年(1713年)2月24日、康顕の死去に伴い、遺領の5,000石を相続し、同4月1日、改めて将軍徳川家継に拝謁する。 享保元年(1716年)12月19日、中奥の御小姓、享保9年(1724年)閏4月7日、御小姓番頭となる。享保10年(1725年)から翌年にかけて2度、将軍徳川吉宗の下総小金原での鷹狩に随行し、享保11年(1726年)5月28日、書院番頭に移る。享保15年(1730年)1月11日、大番頭となる。 元文4年(1739年)9月6日から寛延4年(1751年)3月25日まで駿府城代を務めた後、江戸城西の丸の御側に移る。この際、吉宗から刀を拝領する。宝暦10年(1760年)、将軍徳川家治が江戸城本丸に移るのに従い、政事を執啓する。宝暦12年(1762年)12月25日、家治次男の徳川貞次郎誕生の時、時服6領と白銀50枚を賜わる。 明和2年(1765年)1月28日、下総国飯笹6000石(下総国香取郡、上総国埴生郡、同長柄郡、武蔵国秩父郡)に加増転封となる。 安永元年(1772年)7月2日に致仕し、服5領と養老料として廩米500俵を賜り、また天明6年(1786年)家治50歳の祝宴の際、八丈縞3端を賜る。 寛政元年(1789年)に江戸で死去。享年97。法名は道仙。橋場の総泉寺に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。 == 参考文献 == *「寛政重修諸家譜 巻第52」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平康郷 (久松松平家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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